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第二次世界大戦前後の日本語

时间:2015-09-07 来源:未知 作者:傻傻地鱼 本文字数:5989字
摘要

  1日本语の近代化

  日本语の近代化がいつ始まったかについては、研究者によって见解が异なるが、本格的な近代化は、やはり明治期以降と见るべきであろう。それを促したのは、欧米文化との接触ということができる。欧米の文化に触れることによって、人々は日本语について考え、日本语がいかにあるべきかについて模索した。 その具体的な现れが、言文一致运动や国字问题や外来语などについてのさまざまの提案である。

  1.1 外来语

  十六世纪ごろは全世界の大航海时代における 「冒険の时代」から「征服の时代」へと移行した时だ。 欧米の言叶が日本にはいってきたのはその时のポルトガル语やスペイン语が最初であるが、その後ァ¢ンダ语も入ってきた。 明治期になると英语が多くなり、フランス语やドイツ语も取り入れられた。 その结果、江戸期で使われていた外来语がすたれ、新しい外来语と交替するものも交替した。 例えば、ドンタクに代わってサンデーが使われるようになり、バッテラはボートと交替した。 もっとも早く普及したのが、ヘボン式の缀りである。 ヘボン式と呼ばれているが、この缀り方を考案したのはヘボンではなく、罗马字会で考えた方式を、ヘボンが「和英林集成」の第三版(明治十九年)で采用したことから、ヘボン式と呼ばれるようになったのである。 この缀り方は、のちに改订されて、标准式と名付けられた。 一方、田中舘爱橘は五十音図を基に、日本式と呼ばれるローマ字缀りを考案した。この缀り方は、日本人には使いやすいが、実际の発音と离れる场合があって外国人には分かりにくいという难点があった。 そこで、この二つの缀り方を折衷するものとして、昭和十二年に内阁训令で训令式と呼ばれるローマ字の缀り方が告示された。 具体的に言えば、ローマ字は、戦後になって小学校の教育に取り入れられることになった。 初めは训令式、日本式、标准式のいずれによて教育しても良いとされていたが、後に単一化が図られ、昭和二十九年「ローマ字のつづり方」が告示された。

  1.2 共通语

  この时代の共通语もすでに今日の共通语の母胎と思われるものが、存在していたと考えられる。 共通语の基になったものとしては、大势の人を前にして话す时の言叶と改まった席での対话が考えられる。

  1.3 教科书

  西邨贞が书いた「幼学読本」は他の教科书に多く见られる「デアリマス」を代わりに、「デス」が使われており、「ダ」で终止する例もかなり见られる。 対话の例だけではなく、説明の场合も谈话体から口话体へと移りつつあることを示していると言える。教科书はやがて明治三十七年から国定教科书となるが、第一回の国定読本ははっかりと、标准语による口语文が出来上がった。

  1.4 国字问题

  日本语をどのように表记すべきかは、明治期以降の大きな问题となった。 その発端が、前岛密の「汉字御廃止之仪」とよばれる建白书である。 その中で、前岛が人々が学问をする上で妨げになる汉字を廃止して仮名を用いるべきだと提出した。

  汉字の习得が教育における障害となるとして、それを如何に解决すべきかについては、大きく二つの方向がある。一つは、汉字を全て廃止してしまおうというものである。 もう一つは、汉字の数をできるだけ制限して、汉字を习得するための负担を少なくしようとするものである。现在は、後者のやり方がとられているわけである。前者の场合は、次の三つの立场がある。 A 平仮名か片仮名を用いる。 Bローマ字を用いる。 C 新しい文字を采用する。 平仮名を専用すべきだとする団体には、明治期に「かなのくわい」があった。 大正期に入ると、片仮名を専用すべきだとする人たちが现れ「カナモジカイ」が出来た。 「カナモジカイ」が草案した片仮名の文字は、今日コンピュータによって処理される文书で用いられている。

  1.5 标准语の制定

  まず、作家の作品によって、声をめぐる问题で、方言から童话、东北话、普通话までだんだん定めに来った。 代表作は宫沢贤治の「注文の多い料理店」、国语学者である上田万年の「国民文学を兴さん」、安田敏朗の「国语と方言のあいだー言语构筑の政治学」などだ。それから、普通の选挙法がとりもなおさず、野间清治の「雄弁」は普通の选挙に通じて演説の日本语を创り出そうという言叶を书いてある。

  阶层化される日本语は川端康成の「伊豆の踊り子」でよく表され、植民地の日本语がだんだん决まられた。

  2第二次世界大戦前後の日本语

  2.1 流行语

  1929 年にニューヨーク证券取引所 で 株価 が 大暴落 したことを端绪として世界中で経済不况が起こり、ブロック経済体制、世界恐慌が普及していきた。 ドイツでナチスが政権を获得し、ポーランド侵攻した。 イギリスとフランス、ソ连も参戦し第二次世界大戦が勃発した。 このような背景で、日本语も时代のマークが强く残っていた。 「人民戦线」や「ルンペン」や「持てる国と持たざる国」、「総亲和」などのような単语がこの时代の流行语になった。 第二に、戦前の日本人にとって、教育勅语は圣书、コーランなどに匹敌する文献だったといっていい。 太平洋戦争が始まると、开戦の十二月八日を记念して毎月八日が「大诏奉戴日」とされ、宣戦の诏书が朗読された。 第三に、社説も时代の特徴をつけた。 戦中に多いものは、まず、「皇国、皇纪、肇国」などの皇国思想に関连したものである。 また、当然戦争に関した単语がある。「赫赫たる」は皇军の戦果にかかわる形容である。「大陆、东亜、大东亜」は「民族」を解放して大东亜共栄圏を「建设」するという「思想」によって爱用された。 戦後に特徴の多くは、时代背景から説明がつく。「责任、意见、见解、决定」などは、戦前に「意味、自覚」が多かったのに対応するかもしれない。

  2.2 敌性语
  
  先述したように、近代化した日本は西洋文化と积极的に接触して、いろいろな外国のことを吸収した。しかし、日中戦争から第二次世界大戦にかけて、日本は交戦国となったアメリカやイギリスとの対立がだんだん深くなった。 1940 年に入ると、英语が「軽佻浮薄」と位置づけ、「敌性」にあたるものだとして排斥が进んだ。 だから、ウィキペディアで敌性语とは、敌対国や交戦国で一般に使用されている言语ということである。 笔者にとって、敌性语は国家の法律に禁止されたものではなく、戦中で高まっていくナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた社会运动だと思う。 だから、敌性语は生活上あらゆる侧面を含まれたはずだ。教育、军事、スポーツ、タバコ、交通、雑志、音楽など、いろいろにある。 具体的に言うと、教育方面で英语教育は廃止こそされていないものの缩小されており、中学校や女学校では英语が必修科目から选択科目へと変更され、授业数も大幅に减らされていた。 スポーツ方面で、敌国アメリカの国技である野球の関连用语も彻底した英语排除が行われ、「タイマ」―「停止」、「セーフ」―「安全、よし」、「ストライク」―「よし一本、正球」などが変更しにいった。 しかし、このような「敌性语」は圧力を受けた一般民间人や民间団体による自己规制によって排斥された、主に対米英戦たる太平洋戦争当时の戦意高扬运动のひとつにすぎない。 だから、戦争が终わったあと现在まで使っているアメリカの単语がないわけではない。 例えば、ゴルフ、スキー、スケートなどが挙げられる。

  2.3 汉字

  太平洋戦争下の日本语邱 晨 段克勤(北京林业大学,中国 北京100083)【要旨】

  各国の言语は时代の流れとともに変化するもので、日本语も当然だと思う。

  本文は日本语の近代化から述べて、第二次世界大戦の前後の日本语を例として、日本语自身の変化とそれに関する文化背景を検讨して、言语の変化への影响の要因を研究したいと思う。

  【キーワード】

  第二次世界大戦;日本语;変化外语论坛太平洋戦争において、日本はアメリカだけではなく、中国とも敌対したが、中国から伝来した汉字表示が目立った排斥がないけれども、汉字政策が少しだけ変わりにきった。 1921 年 6 月、原敬内阁の手によって「临时国语调査会」が作られた。 まず、汉字表选定の根拠と并せて汉字表作成の目的が学校教育でけではなかったことを语っている。 その後、「汉语整理案」は1926 年 7 月 7 日から1926 年にかけて官报に発表し、さらに「常用汉字表ノ修正」と「仮名遣改订案ノ修正」を発表した。 1934 年 12 月 12 日、「临时国语调査会」は「国语审议会」に改组された。「国语审议会案目録」によると、「常用汉字表」の再検讨が新闻社などの活字使用频度调査などを含めて详细に行われていることをうかがい知ることができる。

  2.4 植民地での教育

  植民地教育では当初は単にことばを教える「技术としての日本语教育」たらざるをえなくても、「思想としての日本语教育」も同时に希求されていたことを忘れてはならない。 例えば、「朝鲜における朝鲜人の教育」を定めた朝鲜教育令で初等教育である「普通教育は普通の知识技能を授け特に国民たるの性格を涵养し、国语を普及することを目的だ」(第五条)とあり、知识と国民性と国语の教育が目的とされている。具体的な教育政策などでの国语による「同化」の分析については、种々の専门书で読めるので割爱する。简単にいえば、制度的に存在する种々の障壁を见えなくさせるために、文化的に帝国臣民として统合しようとした、ということである。

  国语调査委员会が1903 年に全国规模できわめて不十分な形ではあるが口语法、音韵を调査し、その业绩のひとつとして「口语法」を完成させた。 その意図は、现在话すべきことにも标准を设定しなくてはならない、というものである。 さらにいえば、方言ではなく「口语」には「法」、つまり规则がなくてはならないという前提のもとでの编纂である。 话しことばに基准と法则を见出し统一することは、植民地での国语教育と深く结びついたものであった。

  しかしながら、植民地の人たちはいったいどういうふうに汉语を読むのか。 1930 年代の後半に残した村上广之という人に注目した。 1936 年発表された「朝鲜における国语纯化の姿」によると、朝鲜人の话す日本语のなかの汉语が日本汉字音ではなく朝鲜汉字音で発音されたのだと言った。 どの程度実证的なのかはわからないが、村上の结论としては、「周知の度合」が増すと、朝鲜语読みになるという倾向があるということだ。 日本语の音として流入したとしても、汉字で书かれたものが浸透すると、日本语音は朝鲜语音に追いやられるということのようである。 汉字を共有するがゆえに日本语音·训と朝鲜语音のあいだで混乱し、 なおかつ文字表记を経ない音声として受容していく日本语とのあいだでも混乱が生じているといった状况を、村上は描き出している。

  2.5 标准语と共通语

  戦後、「民主化」で、言叶についても、今までのような善悪のタガがとれ、使いやすい方言で何が悪いか、という开き直りも见られた一方、生身の疎开児童の都会风な洗练さ、知识の豊富さへのあこがれもあって、もともと「良い言叶」として植え付けられていた标准语への志向、评価が内面的にはさらに进んでいった。 方言は、もはや悪い言叶ではないが、「耻ずかしい言叶」という感覚は拭いきれなかった。 时代は下るが、昭和三十年代後半からの、都会への集団就职では、もはや、方言から、良し悪しのベクトルが、理论的にはずされたはずであったが、むしろ、都会との接触が密かになったため、自己の方言についての耻ずかしさ、コンプレックスが増大した。 それに、言语の优劣自体でない、出身地の文化、生活程度の低さの象徴となる方言への负の思いも、都会の高度成长とともに一层深刻になったという事态にも至っている。 「标准语」の正误、善悪、国家、中央集権、强制、というイメージから脱却した、この「共通语」という命名と概念は、戦後の民主主义、自由主义の思想、教育方针にマッチするところもあったようで、早速、教育现场でも歓迎され急速に広まりだした。

  今まで、安易に、「标准语」と使っていたが、考えてみると日本には、「国家」が决めた标准语というものがあるのか、とりあえずは共通语として対処しよう、という暂定的な态度もあったようである。

  2.6 「当用汉字」と「现代かなづかい」

  「当用汉字表」と「现代かなづかい」が共に1946 年 11 月 16 日に内阁训令·告示として公布されたのは、このとき、正确に言えば「日本国宪法」が公布されたからにほかならない。 「当用汉字」だけを使用するとなると、使用できない语汇が多く生まれてくる。 それに対して、後に再建された「国语审议会」、文部省、内阁法制局、新闻各社、放送局、学界から様々な案が出され、大量の言いかえと书きかえによる新语·新表记があらゆる活字の文字面にあらわれることになった。败戦後の日本という国家の「最高法规」である「日本国宪法」を顶点にした、「日本语」の正书法を、国家の国字施策として「当用汉字表」と「现代かなづかい」に基づいて、一挙に末端まで浸透させていくうえでは、またとない絶好の机会だったのである。 结果として、アメリカ教育使节団による「ローマ字书き」教育の勧告に対して、きわめて拙速な形で行われた日本语の简略化方策としての、「当用汉字」と「现代かなづかい」は、明治维新以降の近代日本で一度も行われたことのないような「国策」として、均一的な「汉字かな交じり文」の国家的正书法を、「日本国宪法」から全ての法律に浸透させ、新闻、教科书といった国民的なメデイアの文字面を统一することに成功したのである。

  3言语変化

  への影响近代化の日本语と太平洋戦争前後の日本语の変化と问题を上に述べたようである。 では、现在言叶の変化に関するものを少し検讨してみよう。まず、时代背景の変化との関わりが重要だと思う。例えば、第二次世界大戦を背景に、明治维新したあとずっと使われた外来语の一部分は敌性语になっており、人たちの日常生活で少しずつ使わなくなった。第二に、政治との関わりも大切だ。「当用汉字表」や「现代かなづかい」や「常用汉字表」などは、全部国家の官方の告示によると、何回修整したあと、定着したものだということである。 第三に、グローバリゼーションも大切だと思う。 みんな知るように、グローバリゼーションにつれて、 国家と国家の间の接触が多くなり、新しく出てくるものや外国から流入したものも多くなりそうだ。当然、旧事と古い言叶もだんだん失くなった。

  参考文献:
  [1][2]山口明穂.日本语の変迁[M].1997:185-197.
  [3]近藤泰弘,月本雅幸,杉浦克己。日本语の歴史[M].2005:173-186.
  [4]小森阳一.日本语の近代[M].2000:211-251.
  [5]加藤正信,松本宙。昭和前期日本语の问题[M].2007:1-19.

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